6/28/2010

自由奔放






 
いのくまさん


スペインのジョアン・ミロ / Joan Miró もいいが、
猪熊弦一郎はとてもいい


昨日は初台のオペラシティ、ギャラリーへ


猪熊弦一郎;「 いのくまさん 」
香川出身の絵描き




1955年以降 アメリカへ渡ってがらりと作風が変わった
シンプルな線、点、いろ、かお、顔
いわゆる抽象画だ


絵本形式で 子どもから大人まで楽しめる
段ボールをタイトルカードにデザインした 
ユニークな展示形式もココロ躍った
多数のオブジェ


ユニークと感じるものには 昔から目がない


絵描きか、発明家のどちらになりたいか迷い
数学ができなかったので 絵描きになったという


壁画も多く残っている


スペインで見たミロの作品を思い出した
海辺の近くの真っ白いミュージアム


浜辺をキャンバスにして 
木の棒で描くミロの姿は 忘れられない


なぜ?
私も小さい頃 らくがきが大好きだったから
よく叱られたが 楽しかった


いまは 都会じゃできないけれど
海にいったら やってみよう
浜辺をキャンバスにして 
思いっきり


自由奔放
SOULが躍る ^ ^



6/08/2010

なろうとすること







昔 ある王に

その友人が尋ねていった



「 陛下、

ローマを征服されたら、

次はどうなさいますか? 」





 

王は答えた
「 シチリアが次の場所だな。そこは簡単に征服出来るだろう 」

「 では シチリアを奪った後は どうされますか? 」

「 それではアフリカに向かい そこを制圧しよう 」

「 アフリカの後には? 陛下 」

「 ギリシアの番だろうな 」



「 それら全ての征服の成果は どうなりますか? 」


王は答えた。

「 その時に 座って楽しむことが出来るだろうな 」


友人は言った


「 今 楽しむことは出来ないのですか? 」




これは「  自分への言い訳  」の物語


富を蓄えた後にと 期待する喜びや

不安や理想の未来は

今ここで 手に入れることが出来る

富を持つことは、快適な人生を

楽しむ手助けにな



 


しかし

物質的な富を持つだけでは

リラックスして 人生を楽しんでいく指標とは

なり得ない


 


内的世界や複雑な人間の感情を探求すると

ほとんどの人々が 「 在る 」ことよりも

絶えず 「 なろう 」とするため

苦しんでいることが



「 『 在るもの 』 から 『 在るべきもの 』への変化は

苦しみとなる  



「 妬み 」から「 妬みのない状態 」へ


「 悪徳 」から「 善良さ 」へ


「 無知 」から「 知的 」へ


「 不完全 」から「 完璧さ 」へ


「 世俗 」から「 聖なるもの 」へと 変わろうとするように


絶えず「 なろうとする 」ことは 数千年もの間


人類のマインドで続いているもがきである



 


あるがままのあなた自身を 抱きしめてあげることが

最初で最後のステップである



 

あなたは あなた自身でいなければならない


あなたが どうすべきかは重要ではない


あなた 何であろうと



あなたはユニークなの



宇宙が あなたを そのように作った


神が そのように あなたを作った


なぜ その仕事の 邪魔をするのか?


「 神に従う 」とは あなたがあなた自身であること


あなた自身であることが 悟りである













4/27/2010

Friendship  友情




ある友人と友情について議論をしていたら
ふとこの詩が浮かんだので
引用してみようと思った。



人間とは、面白くもあり、不可思議な生き物。
人間関係を長い眼で見て健全に、愉しく築いていくには
やはり自分の中の border  をはずし
ほどよい愛を与えていけばいいのだろう。



バランスが大事ですね。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++



友情について。



 


君の友人は君の需(もと)めへの応え。
かれは畑。
君はそこに愛をもって種まき、感謝をもって刈り取る。
彼はまた食卓。 君の暖炉。
君は飢えてかれのもとに行き、平和を求めてかれを探すのです。



友がその考えを語るとき、恐れるな、君自身の心のなかの「否(いな)」を。
そして、またおさえるな、「然(しか)り」を。
また、友が黙するとき、君の心は止めてはいけない。かれの心に耳を傾けることを。


なぜなら友情にあっては、言葉なしに、すべての思い、すべての望み、すべての期待が生まれて、分かち合われるのです。
それも喝采を必要としない喜びのうちに。
君が友から離れるとき、歎いてはならない。
なぜなら、君がかれのなかで一番愛しているものは、かれのいないときにこそ明らかになるのだから。
山は、それを目指す者には、平野からこそ明らかに見えるもの。
そして友情には、精神を深めることの他にはどんな目的もあらしめるな。
なぜなら自らの神秘を顕わにする以外のことを求める愛は、愛ではなくて、投げ込まれる網にすぎない。




そして君の最良のものが友のためであるように。
もしかれが君の引き綱を知らねばならぬなら、君の満ち潮も知らせてやるように。
なぜなら、時間をつぶすための友を求めるなら、いったい友とは何だろうか。
時間を生かすための友をこそ常に求めなさい。
なぜなら、友とは君の需めを満たすもの。君の空虚を満たすためのものではない。
そして友情の甘美さのうちに笑いがあるように。そしてまた楽しみの分かち合いも。
なぜなら、小さな事柄の一滴のうちにも、心は自分の朝を見つけてさわやかになるのだから。





Kahlil Gibran  " The Prophet "  
カリル・ギブラン『預言者』

4/26/2010

Trust your feelings.




今から2012年までの数年間は、価値観の逆転が急速に起きる時代だといわれています。

20世紀は、競争、奪い合い、独占、弱肉強食、と言った価値観が支配した時代でした。
これらの価値観に違和感を感じている人が、急激に増えています。

新しい価値観は、
与えること。分かち合うこと。信じること。愛すること。

プラスの波動からはプラスのイベントを引き寄せます。
すべては内面から...ともいわれていますね。

物事が楽に自然体でスムーズに成就できれば、一番いいですね。

Trust your feelings.
「 直感を信じよ 」

その先、どんな存在になるだろうかと、わくわくドキドキしながら、
自分の内面に向き合っていこうと思っています。

3/15/2010

鏡 : Mirror















「 ミラー・ニューロン 」という細胞がある。


脳の中の鏡、という意味である。
他人の行為を、あたかも自分の行為のように映し出す
特性を持った神経細胞のこと。
時々、脳科学の話で飛び交っている。


この細胞は、人間のコミュニケーションに大きく関係しているそうで
そばにいる人が感動して胸がいっぱいになっていると
自分も自然に感極まり、胸が熱くなってくるとか、


一方、落ち着きがなく、怒りあらわに荒々しい人がそばにいると
自分の気持ちもわけもなく苛立ってくる、というように
他人の姿を映したミラー・ニューロンの活動は留まること知らず
互いに共感し、影響し合う脳の大きな特徴の一つである。


人は、ひとりでは生きていけないこの社会構造も心理世界もフォーカスしてみると
自分を映す鏡が他人を通して反映され
他人の心に映った自分の姿を通して、自分自身の本性を知ることができる。
ならば、
人との関係性を通して、さらに自分の個性を磨くこともできるのでは?


また、他人にとっては自分が鏡としての存在になるわけだから
できれば、互いに向上できるよう
自分が最高最善のミラー投影を演出すればよい。


つまり、
イライラした友人のそばで、しっかりにっこり笑い返せばいいのだ。^ ^
そして、言おう。
「 だいじょうぶだよ。 」


穏やかで、明るいイマジネーションを持って
自分のイメージを相手に投影し
相手を通じてさらに自分をのびやかに磨いてゆくのだ。


そうやってミラー・ニューロンの最大最善の効果が表れることになるのだろう。
さらにいうと、
いつも元気はつらつ、好奇心旺盛な人の近くにいるのも
このミラー・ニューロンを活性化させるらしい。


「 あの人のそばにいると、何だかホッとする、元気が出てくる。 」
そして、いつの間にかネガが消えて、どうして悩んでいたのかさえ忘れてストレス解消、いざ帰宅。
こういった経験は非常に多いと思う。
落ちこんだ友人を励ますには、自分の度量、キャパが問われそうだが、
元気はつらつな友人のそばにいた方が何倍も楽な感じがする。


まずはどちらも、意識して確認してみよう
脳の回路が予想以上に成長すること、間違いない。^ ^


最後に
親子の関係性の中でよくいわれていること。
「 現在の息子(娘)の心情は、過去のあなたの心情である 」と。



心情、投影の連鎖。
親子は互いに映し出し、反映し合っている。


身に覚えもあり、ドキッとする内容でもあるが
それを思えば、
やることは自ずと決まってくるのではないだろうか。



3/02/2010

Vancouver 2010




2010 バンクーバーオリンピック。


フィギュアで注目されたキム・ヨナと浅田真央。
美を昇華させるすばらしい演技だった。


キム・ヨナはなめらかで華麗な演技を
浅田真央はラフマニノフの重厚感ある「鐘」を表現した。


終了直後、浅田真央のことばから二人の差が歴然としている理由が解った。
涙をこらえ、がんばってインタビューに応えていた。


「 考えてしまって.... 」


今回二人を見ながら、内面表現に目を向けていた。
キム・ヨナが滑り始めてすぐに、自分らしい滑りを目指して
内面から確実に大きく成長したのだと驚いた。
以前、精神面ではとても繊細で、内気な少女が、
カナダ留学を経て、
陽気で明るい自分らしさと自信を取り戻したと伝えられていた。
2009年の結果が物語る。


欧米では特に、マインドトレーニングに力を入れるというが、
彼女も洩れずにトレーニングを重ねたのだろう。


おわかりだろうか。
全身全霊魂を向けて集中し打ち込む時には


「 無 」になる

「 無我の境地 」になれる

そして、最終局面では「 考えてはいけない 」


芸術も音楽もスポーツも
全て同じであろう、と思う。
実際に体験してみないと解らない世界ではある。


日頃の厳しいトレーニングを積み、
自己を高めて行くプロセスで徐々に昇華していくもの。


「 無 」を目指してその境地に達するものでもない。


到達点は、技術の向上ではなく
トータルで見る人間的昇華だ。


芸術も然り。
日々自分と向き合い、自分が何者であるかを問い、
みな意識的に歩いている。
目を見開いて進み、目的地へ到達する道筋さえ知っている。


わたしはわたしらしく、
いまを生きる、その姿勢がすべてを昇華させていくのだと思う。


すべては内面から充実する。
すべては内面から表れる。
魂はわたしであり、それを経験しようと努めているから
望むようなありかたをすればいい。


現在、巷でよく見かける成功論、自己啓発、問題解決論も
すべて内面から。


決して、自分らしさから遠ざかってはいけない。
与えられた使命は気づいているはずだ。


全ての体験と感動を生み出すために
崇高な輪の中に自ら入って
ほんとうの自分になればいい。


人生は冒険で創造的なのだから。


浅田真央、次に期待しましょう。
がんばれ!


-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
2010 遅ればせながらのブログ。。。
今年は私にとって冒険の年です。
どうぞよろしく。

12/04/2009

目蓮尊者 *maudgalyaayana











2009年も残り1ヶ月です!
思い残すことがないように、仕事にプライベートに、
思い切り楽しみましょう!




今回は、お釈迦様の十大内弟子の一人である目蓮(モクレン)尊者について。
[ ※正しくは目犍連(モッケンレン) ]




目蓮尊者は、お釈迦様の十大内弟子のなかでも神通力(超能力/天眼)をもつ第一人者でした。

目蓮尊者は、お母様が亡くなった後、神通力により餓鬼道に堕ちて苦しんでいることを知り、お母様を救うために行った供養が「お盆」行事の起源だと云われています。(盂蘭盆=うらぼんえ)
神通力をもつ方々は、亡くなったお母様があの世でどこへいったかもわかるのですね。
.....すごい!
そして、お釈迦様から教わった秘法により、実際にお母様を救われ、無事昇天されました。
(現在行われている盆踊りは、目蓮尊者のお母様が天へ昇る姿を象形したものであるとされています。)



目蓮尊者は、ある時、盗賊に襲われそうになりました。
もちろん神通力の持ち主でありましたので「危険が迫っている」ということが事前に分かり、別の神通力を使ってその場を切り抜けたそうです。




また同じように、ある時、盗賊に襲われそうになりました。
この時も、同じように、神通力を使って難を逃れました。




度重なるこの体験から、目蓮尊者は「これは自分の背後になにかあるぞ!」と思い、瞑想によって過去の自分自身の生をじっくりと見つめました。
その結果、「これは避けて通れることではない。過去に自分自身が作り出したカルマが、今世になって返ってきたのだからすべて受け入れよう。」と決めました。




そこで、師匠であるお釈迦様に頭を下げ、これまでの御礼をいい、直接盗賊たちの居るところへ出向いて行きました。
残念ながら、結局、盗賊達に命を取られることになりましたが、その時、死を間際にして目蓮尊者は涙を流したそうです。
さて、死というものを目の前にして、目蓮尊者は、どういう「涙」を流したのでしょう?




「人の命という、最も大切なものを奪うという重罪を犯すことによって、この者たちは、今後何世も何世も輪廻転生をくり返す。その重いカルマを引きずりながら、なんと厳しい人生を送らなければならないのだろう!」




.....その盗賊達の行く末を思い、悲しみのあまり涙を流しながらも、彼らの幸せを願いつつ、彼らに斬られて死んでいったそうです。
真の「慈悲の心」というものは、いま、自分を殺そうとしている者に対してまでも、恨みや、憎しみを向けるのではなく、こころの底から慈しみ、慈愛のこころをもっていつも配慮し、行く末の幸せを願うこころなのだといわれています。




慈悲、慈愛....と聞いて、わたしたちはこの現代社会のなかで、果たしてどれだけのことができているのだろう? と思います。
しかしながら、家族の絆、友人たちとのコミュニケーションなどを考えると、そこには目に見えない愛情があったり、感謝、思いやり、配慮、ちょっとした気遣いなど、真心を向けること、できることはたくさんあったりします。




もちろん、人との関係性の長短はあるにせよ、正しいこころのあり方として、時には意図的に真心をもったアクションをとったりすると、喜びがストレートに返ってきてとても気持ちがいいものです。
こちら側から、いつも善のエネルギーを放射していくと、自分に返ってくるものも善の光となって倍返しされるとよくいわれます。そんなこころのキャッチボールが、あらゆる人とできればいいなぁと思います。




平々凡々に暮らす凡人には、この目蓮尊者のようにはなかなかいきませんね。 ^ ^
神通力をもってカルマを知り、問題に直面してあえて身を差し出し、カルマを解消しようとするその勇気はすばらしいし、また、身を斬られる瞬間にも慈悲のこころを差し出す慈愛の精神も、なかなか表現の域を超えてしまいますが、こころの向けかたとして、そのこころ意気(粋)が本当にすばらしいなぁと思います。
人を見て、こころを見る、そして身を正す、それを最後まで押し通すのですから。




「 こころ磨き 」とは、よく修行言葉で云われますが、
昔の聖人賢者に学ぶところ、本当に多いですね。




年末に向けて、大〜いに学び、
柔軟的に身を正していきましょう。 ^ ^




11/23/2009

Beauty, and Impression





胸にひびく美と感動がある。


個人的には、
レンブラント、リャド、ジャンセン(アート)、
モーツァルト、ショパン、ラフマニノフ(音楽)、
そして、オペラの魔笛- 夜の女王のアリア
がいい。


しかし、なにをもって感動を得るのか。
その感動はどこからやってくるのか、考えたことがあるだろうか?


特にクラシックを聴いたとき、
ホールに響きわたるピアノやヴァイオリンの演奏者は
まるで聖職者のようで、
ホールは寺院、あるいはチャペル。
神々がゆっくりと厳かに、多彩な音を運んできては、
聖職者のからだ/五感を使って表現する
一種のチャネリングのようで、
ズンとこころに染みわたる音は
身体中に大きく波紋を広げ、
一気にドキドキ感が増してしまう。


アートも然り。
昔一度、パリの画廊で涙を流したことがある。
苦学生だった私は、マティニオン通りにあるジャンセン画廊で足を止め、
リトグラフで一躍スターとなったジャンセンの
オリジナルの油絵を初めて見た。
稲妻のような衝撃を受けて
何とも云えぬ、ことばでは表現できない高揚感に包まれた。
身体中が熱くなり、
気がついたら涙を流していた。
神々の住む楽園の空間の中にある、一瞬の光をそこに見たような気がした。


感動の中に神がいる。
神からもたらされたその感動から至福感を得るのだろう。


まだ見たこともない神々の楽園をイメージすると
色・光が広がりすぎて抽象的になってしまうのだが、
人と自然との対話、
オーケストラで云う調和=ハーモニーが保たれて、
どちらが主役でもなく
バランス良く流れていれば、
それでいいのかもしれない。


「 わたしが... かれらが... 」と
主張の競い合いをしてしまうから
全体のバランスが崩れてしまう。
そこに感動はない。


表現の世界も人間の世界と同様、
互いに相手の良さに気づいて、互いに歩み寄る
相手の声をよく聞いて、対話する、
そうしながら、色彩や線が融合し、
ピアノとオーケストラが対話してはじめて、
楽園から一筋の光が注がれてくるのかもしれない。