12/04/2009

目蓮尊者 *maudgalyaayana











2009年も残り1ヶ月です!
思い残すことがないように、仕事にプライベートに、
思い切り楽しみましょう!




今回は、お釈迦様の十大内弟子の一人である目蓮(モクレン)尊者について。
[ ※正しくは目犍連(モッケンレン) ]




目蓮尊者は、お釈迦様の十大内弟子のなかでも神通力(超能力/天眼)をもつ第一人者でした。

目蓮尊者は、お母様が亡くなった後、神通力により餓鬼道に堕ちて苦しんでいることを知り、お母様を救うために行った供養が「お盆」行事の起源だと云われています。(盂蘭盆=うらぼんえ)
神通力をもつ方々は、亡くなったお母様があの世でどこへいったかもわかるのですね。
.....すごい!
そして、お釈迦様から教わった秘法により、実際にお母様を救われ、無事昇天されました。
(現在行われている盆踊りは、目蓮尊者のお母様が天へ昇る姿を象形したものであるとされています。)



目蓮尊者は、ある時、盗賊に襲われそうになりました。
もちろん神通力の持ち主でありましたので「危険が迫っている」ということが事前に分かり、別の神通力を使ってその場を切り抜けたそうです。




また同じように、ある時、盗賊に襲われそうになりました。
この時も、同じように、神通力を使って難を逃れました。




度重なるこの体験から、目蓮尊者は「これは自分の背後になにかあるぞ!」と思い、瞑想によって過去の自分自身の生をじっくりと見つめました。
その結果、「これは避けて通れることではない。過去に自分自身が作り出したカルマが、今世になって返ってきたのだからすべて受け入れよう。」と決めました。




そこで、師匠であるお釈迦様に頭を下げ、これまでの御礼をいい、直接盗賊たちの居るところへ出向いて行きました。
残念ながら、結局、盗賊達に命を取られることになりましたが、その時、死を間際にして目蓮尊者は涙を流したそうです。
さて、死というものを目の前にして、目蓮尊者は、どういう「涙」を流したのでしょう?




「人の命という、最も大切なものを奪うという重罪を犯すことによって、この者たちは、今後何世も何世も輪廻転生をくり返す。その重いカルマを引きずりながら、なんと厳しい人生を送らなければならないのだろう!」




.....その盗賊達の行く末を思い、悲しみのあまり涙を流しながらも、彼らの幸せを願いつつ、彼らに斬られて死んでいったそうです。
真の「慈悲の心」というものは、いま、自分を殺そうとしている者に対してまでも、恨みや、憎しみを向けるのではなく、こころの底から慈しみ、慈愛のこころをもっていつも配慮し、行く末の幸せを願うこころなのだといわれています。




慈悲、慈愛....と聞いて、わたしたちはこの現代社会のなかで、果たしてどれだけのことができているのだろう? と思います。
しかしながら、家族の絆、友人たちとのコミュニケーションなどを考えると、そこには目に見えない愛情があったり、感謝、思いやり、配慮、ちょっとした気遣いなど、真心を向けること、できることはたくさんあったりします。




もちろん、人との関係性の長短はあるにせよ、正しいこころのあり方として、時には意図的に真心をもったアクションをとったりすると、喜びがストレートに返ってきてとても気持ちがいいものです。
こちら側から、いつも善のエネルギーを放射していくと、自分に返ってくるものも善の光となって倍返しされるとよくいわれます。そんなこころのキャッチボールが、あらゆる人とできればいいなぁと思います。




平々凡々に暮らす凡人には、この目蓮尊者のようにはなかなかいきませんね。 ^ ^
神通力をもってカルマを知り、問題に直面してあえて身を差し出し、カルマを解消しようとするその勇気はすばらしいし、また、身を斬られる瞬間にも慈悲のこころを差し出す慈愛の精神も、なかなか表現の域を超えてしまいますが、こころの向けかたとして、そのこころ意気(粋)が本当にすばらしいなぁと思います。
人を見て、こころを見る、そして身を正す、それを最後まで押し通すのですから。




「 こころ磨き 」とは、よく修行言葉で云われますが、
昔の聖人賢者に学ぶところ、本当に多いですね。




年末に向けて、大〜いに学び、
柔軟的に身を正していきましょう。 ^ ^